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対策不要 うそかほんとか

伊賀泰代の「生産性」を読んでいる。

以前読んだ、同じく彼女の「採用基準」がすごく面白かったので、買ってみた。

採用基準の中で、彼女は

コンサルティング会社の入社試験に置ける、ケース問題の対策なんて意味がないどころか、むしろ逆効果だ。上手に解けたかどうかなんて見られていないし、実際内定者には上手く解けなかった人が多い。」

的なことを言っている。

一方、生産性の中では

「私はマッキンゼーの採用マネージャーとして、採用の生産性の向上に取り組んできた。」

とある。

これを読んで思ったのが、

「ケース面接の対策されると、採用の生産性落ちるよな」

ということ。

みんなが同じような参考書を使って、ガチガチに対策をしてくれば、どの候補者の面接も代わり映えのないものになってしまう。

そうなると、各候補者の本当の実力が見えづらくなるため、良い人材の確保が難しくなる。

彼女はもうマッキンゼーを退社しているが、自分の後輩やお世話になった会社のことを思って、嘘の情報を流しているんじゃないか、なんて思ったりした。

この本は、タイトルこそ「採用基準」だが、メインテーマはリーダーシップの重要性だ。

メインテーマで嘘をつくことはまあないと思うが、それとは関係のないところでちょっとした嘘(見方によっては嘘ではない)をつくことは十分考えられる。

内定者にケース問題を上手く解けなかった、と言っている人が一定数存在するのは本当だろうが、単に謙遜しているだけかもしれないし、本当にケース問題での評価が高くて入社したのかもわからない。

ケース問題はギリギリ許容されるくらいの評価で、過去の経歴やインターンでの活躍が圧倒的だったために採用されたのかもしれない。

 

地頭力というのは思考スキル、思考意欲、思考体力の三つに分類される。このうちケース問題を上手く解けるかどうかで測られるのは思考スキルのみ。そして入社後に最も鍛えやすいのも思考スキル。だから思考スキルは重視されず、問題を上手く解けるかどうかも重視されない。

この言い分は筋が通っている。

問題は、思考意欲や思考体力を高める、あるいは高いように見せるために、ケース問題の練習が役に立つかどうかだ。

肝心の思考意欲や思考体力に関しては、「日頃からどれだけものを考えているかどうかで決まる」的な記述しかなく、具体的な鍛え方などは一切記されていない。

まあ一つは普段から色々考えろ!ってことなんだろうし、それはやるつもりだが、そもそも他の人と比べて自分の思考体力や意欲がどれくらい高いのかもよく分からないし、ましてや東大生と比べてどうなのかなんて検討もつかない。身近に東大生いねーし。

自分の思考意欲や体力がどのくらい成長したかだって、なんとなくしか分からない。

学歴やリーダーシップ経験で劣る自分は、ここで高い評価を得られなければインターンには進めない。

時間はあるから、なんとか対策をしたい。

 

思考意欲や体力が見られているのであれば大切なのは、問題を楽しみながら、最後まで失速せずに解けるか、と言ったところだろうか。

いくつかの基本的な考え方だけ叩き込んでおいて、あとはその場で考えたり、面接官との会話を楽しみながらやれればいいのかな。

思考体力に関しては、ブログを書くとき、行き詰まったらすぐに立ち歩いたりせずに、じっくり考えるようにすれば鍛えられるかも。さすがに5分くらいおきに立ち歩いてるのはやばい。

 

 

 

 

 

「楽しい」の分類

さっき自分の過去の記事を見返していて、この記事を読んだ時に思った。

 

gopparironbusou.hateblo.jp

この記事では、オナニーなど瞬間的な快楽と、健康でいることなど恒常的な快楽のバランスをどうとるかについて語っている。記事中に、

お金や社会的地位を手に入れるためには、瞬間的快楽のための時間をある程度削り、その時間で努力する必要がある。

大切なのは、自分がなるべく楽しいと思える方法で努力をすることだ。

究極的には、努力の全てを楽しむことができれば、人生のほぼ全ての時間を楽しむことができる。

 

「社会的地位などを得るためには、時に目先の快楽を我慢して、努力をしなければいけない。でも楽しみながら努力をしろ!」

と言っている訳だが、快楽を我慢して楽しめってこれだけでは日本語としておかしい気がした。なんだこの記事、って感じ。

そこでもう一度、快楽、楽しいについて考えてみた。

 

自分の行動に対し、楽しい、楽しくないの判断をする時、通常やっている最中の楽しさだけでは判断しない。

①やる前の面倒臭さ

②やっている最中の楽しさ

③直後の達成感

④手にしたもの(スキルなど)

これらの四つが、その行動の「楽しさ」を規定していると思う。

この考え方を当てはめると、前回の記事中で述べた瞬間的快楽は②のやっている最中の楽しさ、恒常的快楽は④の手にしたものの大きさを表したものだと解釈できる。

基本的に、行動を起こす前の状態では、①と②が高く評価される。

だが、行動を起こした後、人は③と④を高く評価する。

そして前回の記事でも書いたが、④の手にしているもの(スキル、金、社会的地位、健康など)が多ければ、生活全体の満足感は底上げされる。

そう考えれば、やはり目先の楽しさや面倒臭さに流されず、成長できる行動を重ねることこそが、幸せに繋がるということがわかる。

④を最優先にした上で、①②③を比較的高いレベルで満たす行動をしたい。

結局一言でまとめれば、「楽しみながら成長しよう」ってことで、結論は前回の記事と何も変わらないけど、今回の方がうまくまとめられた気がする!

 

スマホとの付き合い方

最近、スマホへの依存が激しい。

四六時中スマホをみている。

メール、LINE、電話、メルマガ購読、Youtube、英語のリスニングのゲーム、スタディサプリイングリッシュ、ニュースチェック、バイト探し、天気予報の確認、翻訳、本やオーディオブックの購入、メモ、スケジュール管理、音楽やオーディオブックを聴く、クックパッド、ブログを読む、アラームのセット、写真撮影、ネットショッピング、マップ、エロサイト…

こうやって書き出してみると、改めてものすごくいろんなことをスマホで行なっていることに気がつく。

たまにしかやらないことまで含めれば、もっとずっと多くなる。

しかし、天気予報の確認など、一瞬で終わるものも多い。

この中で、毎日、ある程度の時間をかけなければいけないものは、

ツイッターの確認、Youtube、英語の勉強系、ニュースチェック、ブログをよむ、音楽、オーディオブックくらいだ。

それぞれ、

ツイッター(朝晩30分×2)

Youtube(昼夜30分×2、食事をしながら)

英語(2時間)

ニュースチェック(毎朝30分)

音楽、オーディオブック(移動中、料理中)

ブログ(15分程度)

くらいかければ十分だ。

料理、食事、移動中、それと英語の勉強の時間を除けば、合計して2時間もかからない。

でも、実際にはそれらを除いても、毎日5時間近くスマホを触っていると思う。

無意識にスマホを開いたり、冒頭であげた一瞬で終わる作業をする際に、一緒にツイッターやネットサーフィンをしてしまっているからだ。

何とかこれをやめて、その時間を読書に当てたい。

「意志力」を鍛えるつもりで、何とか達成してやろう。

 

 

読書は思考のきっかけ

読書は楽しいし、私たちは読書からたくさんのことを学ぶことができる。

時に誰かが一生かけて手にした知見を、数百円で買うことができる、地球上で最もコスパのいい商品の一つだ。

だから私は毎日読書をするし、多くの人が読書を重要視している。

年齢を重ねるほど、読書の習慣がある人とない人の知性に、大きな差が出るという。

「読書をしなければ立派な人間になれない」という人も少なくない。

 

しかし一方で、読書をしないにも関わらず、高い知性を感じさせ、実際に成功している人がいることもまた事実である。

プロゲーマーの梅原大吾がその一人だ。

少し前に、Youtubeで彼の講演の動画をみた。

彼は1時間半に渡る素晴らしい講演の後、聴講者からの

「梅原さんが影響を受けた書籍があれば教えてください」

という質問に対し

「本は読みません」

と答えていた。

どうやら、読書は知性を身につけるために必須のものではないようだ。

よくよく考えてみれば、もし読書をしないと賢くなれないのならば、印刷技術が普及するまではみんなバカだということになる。

だが、よく知られているように、実際は歴史上には偉大な人物が多数存在する。

印刷技術の発明後、急速に社会が発展したことを考えれば、読書が重要だという事実は揺るがないだろう。

しかし、あくまで読書は有効な手段の一つにすぎず、それなしでは立派な人間になれない、というのは明らかに間違った考え方だと言える。

 

では、読書をしない人は、どのようにして知性を身につけているのだろうか。

私が思うに、それは「思考」を繰り返した結果ではないだろうか。

梅原大吾に関しても、彼の本を読むと、幸せな人生を送るため、ゲームで結果を残すため、徹底的に思考を繰り返してきたことが分かる。

思考を繰り返せる人は、一つの事象から多くのことを学べる。

反対に、思考をする癖がなければ、どれだけの本を読み、どれだけ色々な経験をしても、そこから少しのことしか学べない。

読書をする人の中にも知性を感じない人がいるのは、本を読んでも思考をしようとせず、少しのことしか学べない人がいるからだと言える。

 

読書をすることで、多くの知識を効率的に得ることができる。新しい考え方に触れるのは楽しいことだし、思考のきっかけにも繋がる。

しかし読書は時に、人の思考時間、回数を大幅に減らしてしまうこともある。

まず、当然だが読書をするには時間が必要だ。

もちろん頭を全く使わずに読書をすることはできないので、広い意味では読書をしている時間も思考しているということはできるだろう。

しかし、読んで「意味を理解する」ことと、自分で「価値を生み出す」ことでは、どちらがより高レベルの思考が要求されるかは明白だ。

高レベルの思考ができるかもしれない時間が、読書をする際の機会費用になっていると言える。

また多くの本を読んでいると、「自分で思考をしなくても、全てどこかの本に答えが書いてあるんじゃないか」という錯覚に陥り、思考をしなくなってしまうことがある。

しかし、絶対的な正解がなく、有名で優秀な人の間でも意見が割れることはよくある。

例えばある人は「雑談はすごく重要」というし、またある人は「仕事で雑談をする人は、相手の時間を奪っているという意識を持つべき」という。

これはどちらが正しいという訳ではなく、人や状況によってそれぞれの正解があって良い。

自分で思考をしないと、こういう種類の問題に関しても、

「自分の好きな〇〇さんが言っている意見が正しいはずだ」

と考えるようになってしまう。

そんなことをしていても、誰かの劣化版にしかなれない。

『読書は思考のきっかけ作り』という意識を常に持つようにしたい。

 

 

 

 

 

子供はなぜ幸せなのか

小学校が一番楽しかった。

私の場合、足が早かったり、勉強ができたり、サッカーが上手かったりしたから人一倍楽しんだと思うが、私以外でも、「子供の頃が一番楽しかった」という人は多い。

子供は働く必要はないが、その分毎日退屈な授業を受けなければならないし、宿題もやらなければならない。

行動も親によってかなり制限されるし、お金だってほとんど持っていない。

ゲーム一つ買うのにも、親の許可を取らなければならない。

にもかかわらず大人より楽しいのはなぜか。

いくつか理由を考えてみた。

 

まず一つは、人生経験が浅い分、何をするにも新鮮さが違う。

昔は映画や漫画を見ればほとんどが面白かった。

自転車で行ったことのない隣町までいくだけでワクワクできた。

ヤンジャンの表紙のグラビアで十分興奮できたし、初めてAVを見た時の衝撃ったらない。

一通りの刺激を経験し終えた大人は、子供と比べて感受性が弱い。

よく言えば安定しているが、感情の振れ幅が小さいため、得られる幸せもその分小さくなる。

 

二つ目に、子供は大人より将来に希望を持っている。人生経験が短く、知っている世界も非常に狭いので、相対的な自分の能力、自分の伸び代、夢を叶えることの難易度、どれも正確に把握できていない。

周りの大人からも「夢を持て」と言われたり、職業などに関しても楽しい面ばかりにスポットライトが当てられるため、将来をかなり楽観視していると言える。

また、大人になれば現在と大きく状況が変わることが確定しているため、もし仮に現状に満足できていないとしても、いつか必ず抜け出せる、と思える。

 

三つ目に、貧富の差が小さく、経歴や学歴などにもほとんど差がないため、大人と比べて平等である。

代わりに、「スクールカースト」という概念が存在するが、小学校ではこれもかなり緩やかだと思う。

「みんなで仲良くしよう」みたいな雰囲気があるので、目立たないタイプの子供もある程度尊重される。少なくとも私の通った小学校ではそうだった。

 

中学、高校ではスクールカーストが強固になるため、この点は当てはまらないかもしれない。

一つ目、二つ目のポイントに関しても、年齢が上がり、人生経験を重ねれば重ねるほど、薄れていってしまう。

ただ、その分自由も増え、行動の範囲が広がる。

この年代は、元々持っている自由が少ないので、少し自由が増えただけでかなりの幸福感を感じられる。

また、中学、高校には部活があるため、部活に打ち込んでいた場合、これらの年代が一番楽しいという可能性も高い。

 

最後に、小学校、中学校、高校に通っている間は、自分の居場所が向こうからやってくる。

毎日同じメンバーと顔を合わせ続けることで、自然と仲間ができる。コミュニティーの一員になれる。

しかも子供は、一人前の大人としての行動が求められないし、「存在しているだけで価値がある」みたいなところがある。知らない大人も、基本的には優しくしてくれる。

 

 大学生になって、ものすごい大きさの自由を与えられた。

なんでもできるが、自分の居場所は自分で探さないと、誰も与えてくれない。

それに加えて、社会人になれば、一人の「大人」としての行動が当然のように求められる。

仕事で重要な役職につき、家庭を築いたりすれば、再び自由も制限されることになる。

幸せになるための難易度を考えれば、大人は子供よりずっと高い。

しかし大人には、自分の生き方を自分で決められる、という絶対的な優位性がある。

子供の時のように、なんでも新鮮に感じることはできないかもしれないが、新しいものを追い続けることはできる。テクノロジーの進化だってある。

将来に希望を持つこともできる。

残念ながら平等な社会ではないが、高い社会的地位を得ることもできる。

幸せになるために、自分と向き合い、努力をする必要がある。

でも、うまくいけば、小学生の時以上に人生を楽しむことだってできるはずだ。

 

 

2種類の快楽

快楽には2種類ある。

美味しいものを食べる、オナニー、セックス(それ自体)、Youtubeなど、その瞬間だけ楽しめる、瞬間的快楽。

健康、社会的地位、モテ、名声などの、恒常的快楽。

これらのうちのどちらを追求すべきか、どのようにバランスを取るべきかを考えてみた。

結論からいうと、

可能な限り両立すべきだ。できない場合、基本的に恒常的快楽を優先すべきだ。

まず、これら二つの違いは、努力を必要とするか否かだ。

瞬間的快楽は、努力を必要としない。必要なのは、金と時間だけだ。

一方、恒常的快楽を獲得するには、基本的に努力が不可欠だ。

純粋なセックスから得られる快楽は金で買えるが、モテること、そこからくる精神的な満足感を金で買うことはできない。

また、その名の通り、瞬間的快楽は、その瞬間しか快楽を得ることができないが、恒常的快楽は恒常的に感じることができる。

つまり、恒常的快楽は、生活全体の幸せを底上げしてくれる。

味噌汁でいう所のだしや味噌のようなものだろうか。

それさえしっかりしていれば、それなりの味にはなるし、逆にそれがしっかりしていないと、具材がどれだけ良くても、美味しい味噌汁にはならない。

恒常的快楽の中には、社会的地位、名声のように積み上げていくことができるものもあるが、健康やモテなど、ある年齢を界に減退し続けるものもある。

そのため、積み上げ可能なものを積み上げる努力を怠り、瞬間的快楽ばかりを享受していると、年を重ねるごとに不幸せになっていく。

これらの理由から、私は瞬間的快楽より、恒常的快楽を優先すべきだと考える。

だが、これらは必ずしも二者択一ではない。当たり前だがモテながらセックスすることもできるし、美味しいものを食べた上で健康を維持することもできる。

このように、両立できるものはある意味非常に「お得」だと言えるので、積極的に享受したい。

一方、お金や社会的地位を手に入れるためには、瞬間的快楽のための時間をある程度削り、その時間で努力する必要がある。

ここで大切なのは、自分がなるべく楽しいと思える方法で努力をすることだ。

究極的には、努力の全てを楽しむことができれば、人生のほぼ全ての時間を楽しむことができる。

やりがいのある仕事など、打ち込めるものがある人が幸せなのは、このような理由からだと思う。

また時には息抜きとして、将来の恒常的快楽に繋がらない、瞬間的快楽を求めるのも良い。ただそれはあくまで息抜きであり、それに溺れてはならない。

「瞬間的快楽と恒常的快楽の両立」という視点を意識して生活したい。

 

2017.5.23 追記 

gopparironbusou.hateblo.jp

こっちの方がうまくまとめられました。

ぜひ読んでください。 

友達を作った方がいいのか

私は現在ワーホリでカナダにきているが、語学学校には通っていない。

今住んでいるシェアハウスに住み始めてからほぼ毎日、以下のような生活を送っている。

朝起きて、朝食や着替えなどを済ませたあと、瞬間英作文、音読、スタディサプリfor Englishをこなし、dmm英会話25分×2コマを受講する。これらの英語の勉強は、合計で2時間。

その後昼食を作って食べ、ニュースやツイッター、ブログなどをチェックしたり、読書をしたり、ブログを書いたり、youtubeをみたり、スーパーに食材を買いに行ったりして、夜を迎える。

夕飯を作り、食べ、片付け、youtuneをみて、筋トレをして、シャワーを浴びて、日記を書いて、ストレッチをしたらベッドで読書。

そして眠くなってきたら読書をやめて寝る。

日によってネズミの退治を試みたり(失敗)、バイトを探しに街へ出たりと多少の違いこそあるものの、大部分はいつも同じである。

この生活をしていると、同居人、英会話講師、店員以外と話すことはほとんど無いが、別に寂しさは感じないし、個人的に今の生活にはかなり満足している。

この間受けたTOEICはかなり手応えがあったし、日記やブログを書く中で、将来進むべき方向性もかなり見えてきたし、すごく自分の成長を実感できている。

だけど今日、英会話の講師(めっちゃ美人)に

「せっかくカナダにいるのにそんな生活じゃ勿体無い。You should definitely make friends and play with them!」

と言われたら、なんか急にそんな気もしてきた。

だけどやっぱめんどくさいから、なんとか今の生活のままで良い理由を見つけたい。

でもそもそも、なんでこんなに気が進まないのだろう。

台湾に留学していた頃はかなり積極的に周りの人に話しかけていたのに。

一つには、台湾で外国人と友達になった経験を通して、外国人と友達になるという行為が、自分にとって特別でもなんでもなくなったのかもしれない。

また、台湾で仲良くなった友達とも、帰国後は特になんの関わりもなくなってしまったことから、カナダで友達を作っても、結局連絡しなくなる気がするというのも理由だろう。

友達というのは作るものではなく、自然となるものだとも思う。

最近、好きなブロガーの人が、「友達が多い=悪 友達が少ない=善」と言っていたのも関係しているかも。

時間も金もかかるし、英語はバイトとか日常生活の中で身につけられれば良いし、寂しくもないし、このまま生活しよう。

早くバイト決まると良いな。